« ネット時代のジャーナリズム | Main | ハイドロコート »

2005.06.19

ピーター・スカルソープ

NAXOSの作品集が好い。
室内楽も悪くないけど、ちゃんと聞いてなかったようだ。
タスマニア生まれのオセアニアを代表するオーストラリアの作曲家スカルソープは、地元の楽器をオーケストラと共演させる。その姿勢が伊福部に近い。
音楽の「泣き」も、日本の作曲家たちが悔しがるのではないかと思うほど(実際に日本人がこう書くわけではないだろうけど)。
伝統楽器とオーケストラの共演は武満スタイル(遭遇)が浸透してしまったためか、オーケストラ寄りの作品が多い。それはやはり思想的な問題なのだろう。で、なければユン・イサンを「東洋が西洋に風穴を開けた」と評しはしないだろう。

スカルソープは作品で解決しようとはしない。「音楽は音楽でしかない」のも伊福部に同様だ。

「メメント・モリ」ではラテンの「怒りの日」が引用されるが、作品自体はまるでリラクゼーションミュージックだ。窓を開けて風に吹かれながら聞きたい音楽だ。

スカルソープは、伝統楽器に対してはオーケストラを大きな打楽器として扱う、というスタイルを取る。これは地元の音楽スタイルでもあるらしい。

余談だけど、さっきNHKで石井真木「モノプリズム」終決部を聞いたが、これはノイズだ。太鼓の白熱があるでもなく、何処へ向かうのか解らぬまま終わってる。音量の共演ということだろうか。
(脱線するが、そのまま見てたら、「1,000人のチェロ」という神戸での震災復興を契機に始まった演奏会を紹介してた。シチェドリンに委嘱した「ハムレット・バラード」がつまらなそうで。ポスト・ショスタコヴィッチと期待されながら、ついぞ果たされないシチェドリン。若書きのバレエ「カルメン」は編曲で、主題を消しても聞こえるという錯覚を意識した音処理が話題だった。これも音楽ではなく政治的なコメントだから、音楽を期待する方が間違ってるのだろう。)

話を戻すと、スカルソープ作品集の後半、大阪万博用に書かれたものの改作がある。これがまた興味深い。作曲家も変わっているのが聞いて取れる。音楽スタイルも、内容もまるで違う。以前のタイトルは「MUSIC FOR JAPAN」で、万博用音楽だったがオーケストラ作品に編曲して「オセアニアから」とした。つまり日本へのメッセージだったのを、オセアニアからのメッセージと直した訳だ。この辺り微妙な感じだ。
Mr.ローレンスは捕虜として、ここにいた。そんなことも考えてしまう。

ともあれ彼はコミットメントする作曲家の姿勢を崩さない。

自然と向き合うというダイナミズム、その感覚を忘れないために自分は聞いてる。
なんだか人間が造り出す人工物は自然と共存できないといけないように思うようになってきた。
人工環境に密閉した状態でしか存在しないのでは価値が低いような気がしてならない。

|

« ネット時代のジャーナリズム | Main | ハイドロコート »

音楽」カテゴリの記事

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



TrackBack


Listed below are links to weblogs that reference ピーター・スカルソープ:

« ネット時代のジャーナリズム | Main | ハイドロコート »