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2005.11.05

ナヴィゲーション/作家の感触

佐野元春の歌が自分にとってもう過去の物である理由を考えてみる。
都会のナイトライフを鮮やかに切り取ってみせた「NO DAMAGE」にBOY'S LIFE SIDEとGIRLE'S LIFE SIDEとして描かれる街の風景、それは「私」に見える、ただ過ぎ去っていくものでしかなく、「それら」から見える視点はない。佐野自身が後に「個人主義者」と吐露しているものの、その実かなりエゴイスティックだったのではないか。60年代風な舞台設定で80年代を歌い、それ以降へは進むことが出来なかったスタイルの変遷はそれを物語っているようにも思える。

佐野が、都会のナイトライフを歌ったとすれば、田舎のナイトライフを描いた小説としてタブッキ「インド夜想曲」を取り上げてみたい。インドを移動する主人公をまるでスポットライトで照らしだすように断片的に描く、印象的なこの小説で、しかし、自分は須賀敦子を知った。
須賀の、その「ミラノ霧の風景」と題されたエッセイのなんとも小説のように劇的な光景。それからは手に入るかぎりの須賀敦子の本を読んだ。雑誌に書いたエッセイを編んでいるので本によっては内容に重複がある。しかしそれ以上に須賀の文章に引かれた。とてもしっかりとした筆致で情景を描いてみせる独特な文体に魅せられた。それは例えば、何か、時の重みを知っているというよう奥義ででもあるかのように。
読み進むにつれ須賀は、実は筆が遅い、と知った。近況を綴るよりはかつてのイタリア体験を書き留める、それも雑誌に連載したものを本に編む時に大変な苦労をして、それらを基に、書き下ろしている、と。
そして、ある種の主題が、書き下ろされた本から見えはじめる頃に、須賀は他界する。
須賀によって描かれた世界は、須賀にしか知覚できなかった世界だ。それと知るのは、須賀が他界した後に出版されたエッセイ集を読んだ時、まるで別人だと思い知らされ驚いたからだ。須賀は生活のために書き始めた。それを本にすることは、恐らく、筆者である須賀にしか出来ない業なのだ。全集が出版され、最近でも新刊を書店で目にすることがあるが、その何と言う裏切りであろうか。須賀体験をした読者にとって、須賀敦子の後に須賀敦子はいないのだ。

作家によって知覚された世界を、その作品を読むことで追体験する。それは日野啓三作品においては、日野啓三による日常世界のナヴィゲーションであったと思う。だから日野啓三の「死」は、そのまま世界に対する知覚を失った事を意味するだろう。

書店で小林信彦「東京少年」を探し、平台に低く陥没した、その表紙を見付けた時の、居ても立ってもいられないような感覚は、世界を知覚するナヴィゲーションを失うのではないかという恐れへの憔悴であり、それを自分も手に入れたいと欲望する焦燥感だったろう。「それ」はもちろん小説本「東京少年」ではなく、「東京少年」の感触。「東京少年」を通じて得られるだろう小林信彦の世界ナヴィゲーションだ。

"No Damage" (佐野元春)
"インド夜想曲" (アントニオ・タブッキ, アントニオ タブッキ)
"ミラノ霧の風景―須賀敦子コレクション" (須賀 敦子)
"東京少年" (小林 信彦)
日野敬三

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Comments

ある人が言った。才能は練習すれば磨けるけど、声は生まれつきだからね。

Posted by: katute | 2005.11.07 06:01 PM

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