ルーセルのピアノ
ルーセルのピアノ作品はいつも聞いても弾いても何かスッキリしない思いが残る。
その理由は、初期の印象派への傾倒から、後のインド・カンボジア旅行後の独自路線への移行が、と言われる。
なるほどOp.1の「時は過ぎ行く」は、古典に独自の解釈を足しヴァンサン・ダンディの書法をミックスしたが、和声に見るものがない。
こうしたサロン風な感傷はその後のOp.5の「田舎風」にも見られる。ここではリズムに西洋ならぬ物が紛れてるようだで、和声からハミ出そうとして複合リズムを持ち込む。所々にドビュッシー風の処理が見えるが、まだ途上で、成功したフォルムではない。
「組曲」Op.14では、さらに実験が進み、ラヴェル、ドビュッシーの書法にイベールを合体させようとする。ルーセルの諧謔スタイルはこんな無茶にあるのだろう。「夜のガスパール」と「物語」を足し合わせたような印象を受ける。それでも、以降のオーケストラ作品でも登場する独自の強弱の身振りを生み出してる。シシリエンヌはジャズだろう。しかしブーレの間合いはどうすれば良いのか、早坂文雄のような息遣いが必要なのか。
ソナチネOp.16は、渋いマッシヴな響きがする冒頭の主題が循環し、作者の腕前を見せ付ける、誰もが認める傑作だろう。
ルーセルの作品個性は(インドの神のように?)コロコロと変わる表情だ。奏者はその都度、身振りを変えなくてはならない。この2楽章のソナチネではゆっくりと落ち着いた勿体ぶった態度から突如と走りだす。この速度変化のドライヴ感を表現するのは並大抵じゃない。
音の要求も重厚なオーケストラの響きもあればインドの打楽器もあり、様々なタッチと奏法が必要で、ならばコラージュなのかというと、そうじゃない。この表出は時代の狭間だからだろうか。
そのためルーセルの悪い癖、例の諧謔が手抜き寸前に聞こえる。困ったことにそれをどうにかするのが奏者の努めだ。
ルーセルは雑誌の求めに応じて、ドビュッシー追悼の「ミューズの歓待」とバッハ礼賛の「前奏曲とフーガ」を書いてる。
ルーセルの傑作は何かと問われたら、自分はこれらを上げるだろう。
詰め込み過ぎずに簡潔にまとめてる。
ルーセルの癖(?)で後に追加した、前奏曲が凄く良い。
「三つの小品」Op.49はロベール・カサドシュに献呈されたルーセル音楽の集大成のような作品で、トッカータ、3拍子の舞曲、ロンドで構成されてる。
内容的には、まるでオーケストラ作品のピアノスコアのようだ。
所によっては、いつにない厳しい表情をしてる。これも時代の変化なのだろう。
ルーセルの音楽には2と3で構成されるものがある。リズムの同居と小節区分。小節構成を偶数から奇数にすることで緊張を生む、古典的と言える手法だ。
手元にあるCDはドワイアン、ラエスの2枚。
前者は「組曲」「ミューズの歓待」「三つの小品」「ソナチネ」「前奏曲とフーガ」が、後者は「ミューズの歓待」以外が、収められてる。
前者はLP時代の録音で無駄を削いだ結果だろう。
現在では、どちらも現代の耳には、物足りない解釈となった。
>どっちも探しにくいなぁ。
ラヴェル、ドビュッシーの印象派に、イベール言う所のフランス風を加えるのはどだい無理な相談だ。
当時のピアノ技巧の先端を吸収したとして、作品スタイルとしての纏りは望めないというのが結論なのか。。。
ここからは、自画自賛。
昼間ピアノを弾こうと楽譜を棚から引き出したら、何かの拍子に押し込められた自作譜が出てきた。珍しく献辞まである。
数年前に無給で事務所番をしてた頃に知人に宛てたもの。
8/8拍子(3+2+3)、短調和音3つをそれぞれに割り振って、その上にもう一揃の分散和音を載せる。ただそれだけのアイデアをまとめた。
ゆっくりと静かに語るような1ページ目。少しうごきのある分散和音の2ページ目。残響をペダルに飲み込ませる3ページ目。短調と長調の切りかえしで簡潔に終わる。
残響を鍵盤で拾う「sub rosa」という続編を考えていたように記憶する。
散漫な所を書き直してみよう。。。
恐らく、店頭で手に入るのはラエスのものだろう。通販では扱われてないレーベルのようでamazonでは見つからないだろう。
ドワイアンはエラートがワーナーに吸収されたので権利保有者が録音上の著作権を整理して個人のポートレートでも編まない限り再版はないだろう。
ワーナーAOL問題がこんな所まで影響してるのだろうか。
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