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2007.03.21

哲学者の死と視覚

視覚イメージに取り憑かれる年齢というのがあるのだろうか?
先頃亡くなったボードリヤール(音引きは要らないらしいが日本での通常表記に従う)の紹介記事を読んで、改めて「視覚の快楽」というか見ることの悦びを思った。
9.11の圧倒的な映像を差し置いて、事件ばかりを報じてなぞいられるか!といった言説の数々。を知らなかった自分を発見した。そして思った。
視覚的な熱狂を感じるには相応な年齢に達する必要があるのではないか、と。
さらにそれは、「受動的に見える」というだけではいけない。「能動的に見る」でも、ない。映像を「見て取れる」という能力に係わるのかな、と。
もしそういう「能力」によるのなら、われらは今後、「空間」を失うのだろう。モニターを見つめ過ぎるから、だけでなく、ユビキタスがモニター(監視)空間を広げるがために、空間的な広がりや奥行を失うだろう。それは人々の意識を押し込め更に孤立させることだろう、と思われう。
それは夜を蹴散らしたことで失ったものが帰っては来ないように、あるいは、そのため、新たな脅威を産み出したように。

#眠ることとそれに反すること。その境界線上でこそタブッキ『インド夜想曲』の読書体験が成り立つ。


平面化したパラッパや「Avaron」は、その先駆。
そして現在進行形の、

等身大の父親像と共に・アメリカで今流行りつつある等身大の立て看板「フラット・ダディ」とは
>NHKの朝のニュースで見たよ。その時は、リアルのディック・ワールドかと思ったのだが。

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Comments

夢を見るようになった。何故だろう?
考えるに、自分は眠る前に音楽を聞いてると夢を見ないようだ。なので、頭が眠るからとかではないらしい。
港に入って銀の舟を外に出そうと手を差し伸べるのだがカミソリのように我が身を切り刻み苛む。それなのに飽きることなく外へ押し出そうと手を出している。そして痛みもなく血も流れないのが夢なのだなと気付いて目が覚めた。いや瞼は開けないが眠ってはいない状態が暫く続く。外海に金の船があったろうか?見えなかった。すると銀の船は甘やかされた自己の化身で本気で外へ出たい訳ではないのかも知れないと考えた。
そしてまた眠りにつく。一晩に数回こうして夢を見ては情景を考えることが続く。

Posted by: katute | 2007.03.27 11:42 AM

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