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2007.03.08

音楽雑記

カバレフスキー『「コラ・ブルニヨン」からの3つの編曲』を弾いてて吉松隆『プレイアデス舞曲』を想った。カバレフスキーの、後のユーモアはスクリャービンを経て、こうなったらしい。それが吉松を思わせるとは考えてもみなかった。今後はジャズコードへの接近顔との仕草として現われる両者を比較しながら弾く楽しみが出来た。所作をコードによって解決しようとする、ある種のコード化と呼んで良いように思う。

そういえばシサスクを聞いてハチャトリアン『ピアノ・ソナタ』第二楽章が理解できたのはエッレルを頼ってコーカサスからエストニアへ移住したパルサダニアンのお陰なのだろうか。スメラのチェロ協奏曲でも同様の想いを抱く。

OTAR TAKTAKISHIVILI:RUSSIAN DISK RDCD00768
グルジア国家の作曲者である。
その交響曲2番(1953)、29歳の作。ハ短調で悲劇性を持たせてはいるけれど、多分にチャイコフスキーを敷延してソヴエト的で所々ハヤトゥリアンかショスタコヴィッチな楽器法があるけれど、それにしてはフランス六人組のような仕草もあり、冒頭の弦が幾重にも重なるあたりに期待するようには展開しないのでスカされた気にはなるけれど、叙情的な歌は見事で、むしろ陽気さとのバランスが全体の均整を欠くようにも思えるので、登場するキャラクター(パッセージ)に馴染みが薄いせいなのかも知れないと思ってみたりする。そう思うのは収められた他の管弦楽伴奏の合唱曲がなかな
かに破天荒なキャラクターであったりするから。
ジャケットにTbilisi,Georgiaとある風景写真には山肌から連なる建物と舗装道路のなんとなくメキシコっぽいのんびりな田舎だ。すると分厚い低音を除けば両者は共通するようにも思えてくる。

In Omni Tempore:Obras de Joao Pedro Oliveira
リスボンで学び米国へ移住。主には電子音楽。この身の置き所の無さを思わせる不安定な世界観はなんだろう。自分の日常からは見えてこない視界が開けるのが面白おかしい。これだと私の足元に地面が無いような気がして来るのが何故か、愉快だ。この愉快さの色を当てたいのだがまだ判らない。
中にフルートをあしらった作品があり、フルートを吹いたことないだろうことが伺える。それは悪いことではない。習慣という感性を無視する上で非常に賢明な提案。フルート吹きならこうはしない、の見本だ。
そして思い出した、エルッキ・スヴェン=トゥールを初めて聞いて何が気に入ったかを。彼はロック・バンドでフルートを吹いていた、お気に入りはピンク・フロイドだった。フルートの楽器としてのツボである倍音奏法を心得た、だからこそフルート吹きなら体に染み付いた音響でブレークポイントを構成していたのだ。

LASZLO DUBROVAY:HUNGARIAN SOUNDS
オーケストラ楽器以外を掻き集めた愉快なBAGPIPE'S WORDS CAN BE HEARD(2001)なんて、どう説明したら良いのかと自分の常識を揺さぶる。オーケストラ楽器に対する権威主義を避けることが目的なのか、表現としてこれが適切で他に選択の余地がないのか。それにしては展開方法が西欧的に染まってるように思え、現地オリジナルという訳ではなく、魔法使いの鍋なのかも知れない。
他の、電子音や打楽器作品、クラリネットの先祖とされるTAROGATOと弦楽四重奏による曲なども、西欧や土地の文化をデコードすることで取り込もうという姿勢のようだ。先輩たちが舞台に上げるための化粧と呼んだものをむしろ剥ぎ取ろうという試みなのだろう。

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