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2008.01.14

現代イタリア・若手作曲家の夕べ

2008/1/11 イタリア文化会館アニェッリホール
ブソッティ来日でホワイエには図形楽譜とペン画の展示があった。見ていた隣に本人もいたけれどオーラがなかったので気付かなかった。
開場が遅れてたのは最初の演目でのライブ・エレクトロニクスに不具合があったらしい。曲目が差し替えられた。
二曲目のジェルヴァゾーニ(1962-)は過去の作品を断片化して引用する手法を見せた。期待していた方向性ではないけれど、自分にはジェラール・ペソンを想起させた。
次のカルロ・フォルリヴェジ(1971-)は音のメリスマが心地よいクレッシェンドを描いた。演奏後に指揮者がグラスハープを砕いてしまい作曲者にイタリア語で何か言っていたのが帰りに話題になった。怪我はなかったか?、大切な楽器を失ってしまった、新しい作品を書いておくれ、などなど。
休憩後にシェルシ(1905-1988)。イタリア人が演奏するのを初めて聞いた。本国で名誉回復したのだろうか。呪文のような古代ローマ歌謡のような歌のメロディがうまく落ちてなかったのはわざとなんだろうか。
スコダニッビオ(1956-)のヴィオラとチェロの二重奏の無駄に超絶技巧を要求する無駄を愉しむという快楽主義者ぶりをギャグとして愉しむことの出来ない聴衆たち。
この日の目的はロミテッリ(1963-2004)だった。何を書いたのかを知りたかった。作品は中間にメトロノームを挟んでの後半では破滅へと向けて仕切りと跳躍が試みられる。無念だ。この先もまだ作品を書きたかったろうと忍ぶ涙を禁じえない。

無料コンサートだったため、一部のオタク的愛好家とカルチャースクールな中年ばかりが集まって、作品に耳を真摯に傾ける者は極めて稀だったようで客席からは紙をめくる音とカバンのチャックを開け締めする音が絶え間なく聞こえていた。
受付で配った案内状に作品解説はないし、ましてあったとしても作品は演奏され鳴っている瞬間にそれをめくる意味はただひとつ聞きたくない意思表示だろう。
この日のプログラムは、控え目で攻撃的な音はなかった。それによって個性が明確でない印象を与えられた。音色や音響にこだわった作品ばかりで、そうでなくても日本ではスペクトル楽派は評判が悪いのに、尚更だ。
中高年のオジサン、オバサンからはメロディがない、演奏者にやる気がない、現代音楽は造音だ、楽器を弾くんじゃなくて色んな道具みたいに扱ってる、と、まったく楽しいおしゃべりが聞こえた。

戦後、ダルムシュタット夏季講習に集まった前衛音楽家を自認する人たちの孫弟子の世代ではある、シェルシ以外は。
しかし流派が異なるにもかかわらず感触が似ている。演奏側の問題だろうか。
皮肉なのはシェルシに始まったと言って良いスペクトル楽派的表現はフランスで開花し定着している。それが本家イタリアでは模索の段階にあるようだ。

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