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2008.03.05

シェルシは新古か

あまりアナウンスがなかったので気に留めてなかったstradivariusレーベルのGIACINTO SCELSI Collection vol.2。見ればfestival scelsi 1905-2005とある。もちろんFUNDAZIONE ISABELLA SCESIのロゴも。つまり、例の音楽祭、連続演奏会の記録ということだ。 雑多な演奏者、雑多な演目。器楽組み合わせの妙といえば良いのか、珍しい作品が集めてある。 シェルシはコンポーザーではなくメッセンジャーだと自分を名乗っていたらしい。 プッチーニの威光/偉功が絶えないイタリアにあってコンセプテュアル・アートだと名乗り上げてもそれを受け止めようとする聴衆は皆無だったろう。 果たして、ここに録音された演奏はシェルシ音楽を満足させられるのだろうか。

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Comments

本国で名誉回復ならず、か。

Posted by: katute | 2008.03.11 05:16 PM

何度聞き返すも、本国イタリアで名誉回復がなったとは今もやはり思えないのだけど。
内容についてメモ。

Stradivarius STR 33802
ジャチント・シェルシ(1905-1988):コレクション Vol.2

音楽祭の責任者がニコラ・サーニだったのを今更に知る。

もっと位相に気を使ったヴァーレーズばりの立体音響を今後のイタリアに期待する。

特に初めの2曲での音響と位相が、場内の雑音に集中が遮られてしまうのが残念だ。

Pranam II(アンサンブルのための;1973)

暁闇の竹林 鳥たちの無言の囀り
山頂にのたうつ艶やかに厚い雲波
星影を白々と吹き消す高地の息吹き
天空に冴えざえと凍える白銀の月

微分音のポルタメントのざわめき、ユン・イサン聞くならシェルシも聞け!

こういう演奏と録音がようやくに現われたことを歓迎する、と共にライヴ録音であることを恨めしく思う。

To the master(チェロとピアノのための;1974)
主への捧げもの、己の法への讃歌。つまり即興に基づく。ぽつりぽつりとしたコダーイのようなピアノとバラカウスカスのブローク・ジャズのようなチェロと。そして肝心なことは叙情に墜ちないこと。後半は前半での後始末か。

Wo Ma(低声のための;1960)
牛馬? 中国人の名前のようだが詳しくはないので。
こうした子音と母音を分解して音だけで歌うことが初めの頃は理解出来なかった、いい大人が何を?と。振り返れば自分も歩きながら色んな音を出してるのだ。引き伸ばしたり裏返したり、口腔内を広げたり狭めたり響きを調節して。
想像された古代中国のショウミョウ。
それをこうして作品に仕立てることの驚異。だからこそシェルシは演奏者に変更を許す、より自然な即興であるために。

Wo Ma(低声のための;1960)
フランス風なブルレスケ?演奏会の息抜きだろう。

Rotavita(2台のピアノと打楽器のための;1930)
バリ風なクラスター音響の練習か。

このふたつは、音色が珍しいけれど楽器の組み合わせを替えてみても良いのではないか。
並べてしまうと25歳とそれから20年後も大きな変化は見られないような気がする。

Preghiera per un'ombra(変ロ管クラリネットのための;1954)
古代への幻視。民謡素材への傾倒と評されることが多いので敢えてメッセンジャーの意味付けをひもときたい。

Chukrum(弦楽合奏のための;1963)
まさに夜明けに聞く音楽だ。だが第一曲のような集中力に欠ける。演奏も。

財団HP http://www.scelsi.it/discografia/discografia.html
にはもう一枚とMONDEレーベルのコントラバスのアルバム(記載間違い。古のサイトは英語を読まないらしい)が当日の記録として載ってた。
他に音楽祭プログラムと同内容の高橋アキのアルバムも出てる。

ケージとの同質性で、この日記が面白い。

ヒョーシン・ナの「作曲家の旅日誌」(1-12)
http://www.suigyu.com/mike/hyo-shin.html

メッセンジャーでなくパッセンジャーを考える。
それは、これにも通じる。より自然な即興であるために。

ハイブリッド玩具の作り方
http://pingmag.jp/J/2008/03/17/how-to-make-hybrid-toys/

Posted by: katute | 2008.03.20 02:24 PM

曲名をコピペし損なってるので、訂正。

Rotavita(2台のピアノと打楽器のための;1930)
フランス風なブルレスケ?演奏会の息抜きだろう。

Trio(ヴィブラフォン、マリンバと打楽器のための;1950頃)
バリ風なクラスター音響の練習か。

Posted by: katute | 2008.03.21 10:28 AM

シェルシの音楽は唄だ、器楽であっても。語りを活かした言い回しはない。
こうした息の長い呼吸を宿してるのに、ブレーズもホリガーも演奏していない。
空想された古代の歌謡を顕現させようとするチャネリング(?)が理解を超えてるのか、あるいはラテン気質の違いだけ、かも知れない。

Posted by: katute | 2008.03.23 10:08 AM

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