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2008.03.05

Re: 知ってると思うが

会社のPCが潰れ、別なマシンをあてがわれたが、ブラウザーに慣れるまで時間が掛かりそうだ。 同時期にポータルサービスがデザイン変更したので、これも不慣れというか、使い難くなった。 ブクマを多数失った。 松村禎三の情報を探してて偶然下の記事は昨日見た。 こうした感情を共有するのは難しい、昔日の思い出として個人限定的だと思う。 そういうことは、その本を読んでから発言するのが礼儀かもしれない。けど、そんなことしてたら忘れてしまうので、取敢えず。 伊福部のラウダ・コンチェルタータとラヴェルのピアノ協奏曲が似てると最近考えてる。 伊福部はラヴェルを研究してたに違いない、と。 それは松村のオスティナートにも関係する。 ラヴェルとドビュッシーの和声的スタイルの差異。 西村朗がメシアン的なら松村はなお伊福部に似てラヴェル寄りと評すことが出来るだろう、と。 >>知ってると思うが 伊福部の「管絃楽法」、復刊! 喜びで溢れてる。こういう人もいるんだな。

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Comments

plagued

移動式自閉装置がクールとは矛盾以外の何物でもない。
むしろ他との関係を絶って孤立・屹立しているべきクールを侮辱しているのか知れない。

60年代70年代はコンセプチュアル・アートが他者の行為(レディメイド)を作品として記録するミニマルをも包含した作品が、美術か否かが問われ、80年代にはそれらの発見発掘が進んだ。
90年代になると美術界には一大転機が訪れ大きなパラダイムシフトが図らずも起きた。

その頃に天才と呼ばれながら傑作を残すこと無かった鴨居玲が他界する。

現代の目から見れば、その作品は時代を先取りするものであったし、現代は鴨居に恋焦がれているようにも捉えられる。

鉄道高架下でダンボールを集めながら煮炊きする人、地上げ中の暫定的駐車場前で寝具を敷いて就寝する人、ビニールのゴミ袋いっぱいに集めたアルミ缶を丁寧に低く低く打ち据えて潰す人、押し車に家財道具を積載してその周囲になおレジ袋をぶら下げて移動する人、修学旅行生の後を壊れたカセットテープレコーダーを首に下げてついて歩く若い男。
夕方には何処からとも無く現れて店先にダンボールハウスを仮設するこれらの人々。これらは鴨居玲の幽霊だ。
ただし鴨居が求めた心性とは異なり暴力的なイノセンスは存在しない。顕現するのは経済的破綻ばかり。

90年代に起きた美術界のパラダイムシフトは積極的投機対象にされたことだ。

悪魔の化身となった七つの大罪は社会をふるごとに分化し、さらに金銭欲、権力欲、個人主義などを作り出した。
欲望の細分化が起きてる。民俗学的に解釈しなくても、それは進化発展を意味する。

矛盾を受け入れろ、と。何が矛盾なのか見えなくなった現代なのに。

Posted by: katute | 2008.03.10 at 01:42 PM

「池野成メモリアルコンサート」ライヴ!
http://www.sowbun.com/ikeno/index.php

奔出する“一”──作曲家・松村禎三論
丘山万里子
http://homepage3.nifty.com/musicircus/okayama/matsumura/01.htm

Posted by: katute | 2008.03.10 at 01:43 PM

尽く耳を奪われろ

「松村禎三の世界」
松村禎三作品に限らず日本の作家は聞き慣れないと頭痛がする。普段聞く西欧の作家たちと音の組織が異なる。
西欧の作家たちは永らくバッハを規範とするように和声上に音楽を構築してきた。対してアフリカの音楽はリズムオスティナートをドローンとしている。ガムランもこれに近いだろうか。
松村は物凄いパワーで数を加える。足算の音楽で、引算はされない。

師匠である伊福部のスコアはユン・イサンに近いのではないか。まぁどちらも一冊しか見たことがないけれど。
松村は、ピアノと歌曲だけしか見てないけど、小倉朗のそれに似ている。

阿知女(1957)はストラヴィンスキーの影響が顕著な作品だ。言ってみれば、「きつね」に三大バレエを詰め込んだような。
松村にとって音楽は原始へのオマージュだ。
福永武彦の定義した「野性」と「野蛮」の差異を想起しよう。

Posted by: katute | 2008.03.10 at 01:44 PM

まぁほとんど暴論に近いことを書いたついでで、ラヴェルとドビュッシーの違いをオルガンポイントに見よう。
ドビュッシーは様々な楽器の組み合わせによるソナタを構想した時に響きへの関心を示した。それは持続音上での変化でオルガンポイントを利用した音色の冒険を試みようとした。例:フルート、ヴィオラとハープの為のソナタ。
対してラヴェルは「ボレロ」のようにあからさまな持続音とはしないで同一調での展開とする所に音の身振りを載せた。
そういう視点から伊福部楽派はラヴェル的で、西村はメシアン的に思えるのだ。

ラヴェルのピアノ協奏曲は、ソナタ形式を信じないので、モンタージュを利用したロンドと思ってる。

Posted by: katute | 2008.03.10 at 01:57 PM

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