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2008.08.12

『死と生』へのメモ

『死と生』へのメモ

『アメリカ大都市の死と生』の面白さについて書いておきたい。
読み進めるに従って感じるものが変化するのだ。

ジェーン・ジェコブス『アメリカ大都市の死と生 (SD選書 118)』

『死と生』第一部へのメモ

論を弄するように、または日本語になってないとの批判はamazonに譲るとして、科学的でない用語の使用に腹を立てながら、この翻訳しか原著と著者の意図(?)を伝えて来なかったことの損失を指摘しておきたい。

読み始めは、考現学のような街の観察を推奨するので愉しくなる。
ポー、ボードレール、ベンヤミンを引き合いに出す迄もなく、都市計画設計家には興味がないだろうと思える街の、風景の、味わい方や、良いガイドブックの選び方のように、街をバレエとして鑑賞することを奨める。
読み進める内に著者が定義する街が何か判る頃に、まえがきで触れられたル・コルビュジエの「輝ける田園都市」という定説にも疑問を抱くことになる。

素直な読者であれば『フランケンシュタイン または現代のプロメテウス』のキーワード blast,blasted に『死の都
ブールージュ』を想起し、この著書の原題「THE DEATH AND LIFE OF GREAT AMERICAN
CITIES」を味わうのではないか。あるいは更には、『時計じかけのオレンジ』を20世紀に留めた映画監督と21世紀に希望(?)を託した小説家とを思い出したろうか。
その中で書誌学的なとイー・フー・トゥアンを想起し、収納のプロなどを想ってみる。

<黒川記章の乱>
地域自治をどう思っていたのか。
第一部の「都市近隣住区の用途」を読みながら、例えば151ページあたり、そう考えてしまう。
日本建築界でのル・コルビュジエの系譜というのも怪しいが、それへの反発として問題提起のつもりで訳したのではないかと思えてきた。
「用途」という訳語が疑問じゃないか、地域自治を語る章で。それこそ「住むための機械」への憧憬。
生活圏や生態という発想から都市を観ていないのではないか。
それで晩年の立候補へと向かったとしても破れるのは無理もないこと。
丹下や安藤が優れてるということでなく。
そして、ル・コルビュジエの都市計画案などから、誤解されてるようだが、柳宗悦ばりの民衆芸術体験を綴った「東方への旅」という若き日の旅日記を忘れてるのではないか。
ここでの都市計画家の、整理は、体力が衰えた企業や資産を横取りするアレではなくて、散らかった部屋を片付けろと言う教育熱心な親たちに似ている。
部屋を整理すると使い勝手が悪くなる。と言うか私などは、物を取り出すのにすっかり元どおりに散らかしてしまうのだが。
部屋の見栄えと使い勝手を両立すること、これが最近の収納上手と呼ばれる人たちのアドバイスではないか。
「静」と「動」の対比で言うなら、ジオラマを目指すのが「都市計画家」ということになるかな。それが翻訳のもどかしさに現れ、原著書と翻訳者の表現差となってるように思えなくもない。

また、近隣住区、街路、下町など、これら混乱を招く用語は編集者が整理し、現著者の地元重視な記述に配慮が欲しいところ。

第二部を捲る頃には、読者は原著者の書き進め方をいくらかは理解し、自ら提起した問題を検証していくのだと読み取れる。
この頃にはもう既にピクニック気分ではなくなってるはずだ。

なので新規に訳し下ろすなら、山形が「俺にやらせろ」発言をしてるそうだが、アフォーダンスの佐々木正人と(情報)デザイン面から深澤
直人や奥出直人らを加えることを提案したい。
理由は、ここまで読み進んだ読者には自明なこと。

参照:

輝く都市

ジェイン・ジェイコブズ

『アメリカ大都市の死と生』の著者ジェイン・ジェイコブズ死去

黒川紀章

サムライ・黒川紀章の乱


『死と生』へのメモ:補遺
第一部での想念メモ

都市と人造人間、道徳観念と正義(確かポリティカル・コレクトの原義はメアリ・シェリーの父親が提起したんだっけか)、自由と路上などに自然淘汰と政治経済を併せて、この本を読むと面白さが増すだろう。
あるいは、少年犯罪と。
そうして生活の「場」における自由って何かを思い出すことが必要だろう。

これまで後半が日本語になってないことへの批判が多くされてきたにもかかわらず放置されていることが日本での都市計画の現在の姿を映し出してるのだろう。
原著者のユーモアが日本語では硬質で伝わってこないのも残念だ。その辺は元を想像して補うしかない翻訳と思える。
『アメリカ大都市の死と生』の日本語版が駄目なのは翻訳の日本語が駄目であり、都市を「場」として認識してない風な日本語がいけない。原著者の生活から紡ぎだされるユーモア感覚が言葉に活きてないためか、しばしば主張が不透明さを帯びる。

情報伝達に興味があるならティッピングポイントを街の地図に思い描きながら読めるだろう、原著では。

しかし、都市の栄光と戦場の栄光は、近代以降は交通戦争に、それ以降は何に見るべきだろうか?


* * *

『死と生』早読み

黒川記章訳 ジェーン・ジェコブス『アメリカ大都市の死と生』の翻訳上の問題はやはり用語整理だろう。
ただ、面白い問題提起も含んでる著作なので多方面からのアプローチが望ましい。
「擬科学」とか、経済や政治、地方自治、補助金、もちろん生活と生活者の姿など。
翻訳チームには、Ex‐formationの原研哉を忘れずに、ぜひ。


以下に、翻訳の最終章とあとがきから勝手引用。

11 多様性についてのいくつかの神話

「用途が混在しているのはどうしても見ぐるしい。だから交通麻痺を起こすのだ。この混在した使い方が用途の破壊を招くことになる。」

都市におけるいろいろ違った用途が巧みに混じり合った状態は決して「混沌」たる形態ではない。反対に、こういった状態はむしろ秩序の複雑な、高度に発達した形をあらわているのである。この本の中では、どの章でも直接、いろいろ混合し合った用途、この複雑な秩序がいかに働いているかということを述べてきた。

都市の建築的な眺めの純粋な相違は、ラスキンが巧みに述べているごとく、こう言い表わされている。
……さまざまな人間模様の織りなすもの。それは、一人一人違った理由を持ち、一人一人見解において違った目的をもってさまざまなことをしている大ぜいの人びとである。そして建築物がその違いを映し出し、表現している——建築物はたんに形であるというよりむしろ内容のひとつである。人間として、人間の問題はわれわれを最も興味あらしめることである。文学や劇におけるごとく、建築においては、人間の背景に生命力と色合いを与えるのは、人間のバリエーションの豊富さである。
単調さの危険を考えるとき、われわれの用途地域制の規則における、最も深刻な失敗は、完全にある一区域をたった一つの用途だけに使われるのを許しているという事実に起因している。

ラスキンは多様性についての論文のなかで、都市の用途地域制における最も大きい欠点は、単調さを「許す」それであるということを暗示した。私はこれは正しいと思う。多分その次に最も大きい欠点は用途の「スケール」を無視することである。このスケールの中ではこのことは重要な条件である。あるいはそれを用途の「種類」で混乱させてしまうことである。そしてこのことは、一方では街路の視覚的(ある場合には機能的)崩壊へと導き、他方では、そのサイズや経験上の結果がどうであろうと、用途種類を種類分けし、分離する見さかいのない試みへと導いてゆく。多様性それ自体は、したがって不幸にもある場所では、制限されたというより不必要に抑圧される。

…都市というものは、すべての市民のために、市民がつくりあげたものであるときにのみ、あらゆる人に対して何らか役に立つ能力をもつものなのである。


訳者あとがき

「近代都市計画は、巨人のチェス遊びだ」と痛烈に皮肉っているジェイコブスの発言が、人びとの注目を浴びたのも当然のことだろう。その後、ロックフェラー財団の研究費を得て著わしたのが、1961年に出版された『アメリカ大都市の死と生』である。450ページの全ページにわたって、ちょうど世間話好きなおばさんがかん高い声でしゃべり続けるような調子が最後まで続き、読者は、ときどき頭痛を感じながらも、逃げ出すことができないような彼女の情熱に圧倒されてしまうことだろう。
まず扉には、「わたしが幸福を見つけるためにやって来たニューヨーク市に捧ぐ」とあり、次に、「この本に図や写真がないのは、あなたがたの身のまわりの光景のすべてが、この本の図や写真のすべてなのだ」という調子である。

(この後、各章のタイトルが並び、本文からの引用が羅列され大まかな本文の復習となる。)

スーパー・ブロックによる都市再開発といえば、都市再開発の常識的な手法のように考えられており、わが国でも「線から面へ」などというスローガンがまかり通ったりするのだが、さいわい、公共投資の少ないわが国では実際に行われた例はまだない。アメリカでは、大都市を中心とする都市再開発は、スーパー・ブロック方式でどんどん行われており、ジェコブスの名付けた垂直田園都市が実現している。

ジェコブスの提案する混合用途地域とか、小規模ブロック制による多様性といった方法は、私にとって全面的に支持できるのだが、問題は、それを構造づける建築的な方法がいかにして発見されるかという点にあるのではないだろうか。

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