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2008.11.30

見ることを疑え

先月レニ・バッソのショートピース・アンソロジー2008を観てから、どうも自信が無くなってる。
ミニマル・ダンスと日本的舞踏の融合した、独りストロボ・ライトのような残像効果が印象的だった。
それを見る自分の眼がまるでテレビ番組の映像のように、カメラのように動きを追っているのを知って驚いた。
そう観ることがこういう場合の手順であるかのように動きを視線が舐める。もちろん動きに集中できるように証明が調整されてる。それでも、お決まりのカメラワークで対象を見ている自分の、観る意識がスタイルとしてかマニュアルとしてか身についてるのにはビックリだ。
動きを見る手順のような(その)形式に頼って、(それを)観ている。

今日偶然に積読の中から《韓国の学術と文化4》『私の文化遺産踏査記 1南道踏査一番地』をめくっていたら、こんな記述に出会った。
「西洋人たちが、彼らの自然色に合わせて作ったマンセル色相表に眼が慣れてしまい、その数値に合わせて製造された絵の具とインクで絵を描くこと、印刷すること、そのようにして作られた製品に慣れてしまった私たちの眼に、あの南道の春の日が描いて見せてくれた原色の饗宴は(以下略)」
仕事柄、色に関心はあったが、複製技術時代の製品管理であるからには、そうした自然を相手にした発想も認識も持っていなかった。

と感じながら uakti agunas da amazonia music composed by philip glass なんて聞きながら。。。

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Comments

勘違い?
感覚が鈍くなってるのは自ら視聴覚を遮蔽するがためだけでなく、テレビの普及で嗅覚を同時体験できなくなったためなのだろう。
世界が平坦になってるというのはそうした勘違いでしかないと思える。
そうした意味において、先進国というのはいくつかの指標を表すだけで現実的な感覚器に訴えるものではない。
あるいは都市の、総合的な体験としてあるべき感覚器が細分化してしまっているのか。
統合されたひとつの経験としてではなく、感覚器官それぞれ個別の経験が各自収納されてるとしたら処理能力としても情報価値としても、それらは評価において原始的なままであるのではないだろうか。
もし情報を統合することが出来るなら、入力される各情報の断片から多くの意味内容を相互に閲覧、参照することで、より豊かな情報経験を得るに違いない。
五感を総動員して経験すべきところを視覚のみに頼り過ぎる現在の生活様式が精神の、判断と経験の貧困を生み出しているのかも知れない。

Posted by: katute | 2008.12.03 at 03:08 PM

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