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2009.04.12

フリッチャイ、グリュミオー

Fricsay・Grumiaux
録音や演奏については最近の物の方が解りやすいだろう。
1951,53年の録音なのでステレオ表示があっても、そんなはずはないのだし。
解説によれば、専属のレコード会社が異なるため実現するはずのないカップリングが客演で実った、とやや興奮気味に記されている。
では、これを聞く価値はないのだろうか?
好い演奏を求めるなら答えは否だろう。
しかしここで明らかになるのは、演奏スタイルと解釈の時代的な変遷だ。
ストラヴィンスキーのイタリア趣味が表現された協奏曲で、グリュミオーは一人称で対応する。
メロディやパッセージが表情を変えようとも演奏する主体は「私」である。
これはバッハやラロのスペイン交響曲でも同様だった。
しかしこの作曲家の、ピカソのように曲のスタイルを変えるとまで言われた理由が、ここに明らかだ。幾分か分裂症気味でまとまりに欠ける主体を演じてしまうのだ。
なるほど、次のバルトークのディヴェルティメントのソロ/トゥッティの対比を参考するなら、まさにブレーズが「バルトークはストラヴィンスキーの練習のために演奏する」と言っていたことは正しい。
「春の祭典」ではフリッチャイでさえ探しあぐねているようで、ついに現われた解は、まして一人称でなく、「多」だ。
これは後の演奏では当然な解釈とされるため気付かなかったが、大変なことだ。
叙述者が多なのだ。
ストラヴィンスキーに明確にして、そうした思想を有していたかは不明だが、「春の祭典」という作品は既にして、そう書かれていたのだ。

今あるのは、記憶の亡霊とでも呼べそうな、こうしたファースト・コンタクトの残映でしかないようだ。

あるいは、バルトークでもつれた演奏をしてるように楽団と上手く合ってなかっただけなのかも知れないが。

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