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2009.05.24

原典版ブルックナー

自分の記憶にはシモーネ・ヤングはバロック音楽しかなかった。
原典版を見直す流行があるのか自分は疎くて知らない。
ブルックナーを音の塊として、大きな構造物と、展開のくどさはミニマルの芽生えくらいに思ってた。

2番。
それぞれのフレーズがキャラクターを演じる音楽速度が絶妙な匙加減。なるほどオペラ仕立ての腕前ならこれは面白い表情が立ち上がってる。弦楽器のピチカートが新鮮だ。
いや、そうじゃない。オルガンの即興演奏だ。
この原典版の演奏を基準にすると、オーケストラを使った論理的な近代音楽を作り上げようとする時代にあってブルックナーは古典派以前の即興音楽だったんだ。
音楽単位の切れ目というかフレーズを潤滑に鳴らし続けられないと思われる休符の多用。
だからこそ、ブラームスがソナタ形式に偏執的だったから、音楽じゃない呼ばわりされたんだ。いくつかスケルツォを書いただけ、と。
それで劇場全体がひとつの楽器として鳴り響くワーグナーに共感した。
そう考えると、改訂版制作はオルガンをオーケストラというアンサンブル機能へ移し替えると同時に論理的な近代形式を追求することでもあったはずだ。
どうりで即興の名手と言われたのにオルガン作品がつまらない訳だ。自分で否定する方向へ向かって行ったんだから。
そうするとオルガン即興の腕前を伺わせるのが原典版と考えて良いはず。フレーズを細かく聞くと随所に、いかにもオルガンらしい生態を表す技法と思える箇所が散見される。
この時期、作品スケッチはオルガンで書き留めてなかったか気になる所だ。
音楽で飯を喰うにオルガンだけじゃなく何でも出来るぞとお墨付きが欲しかったのも切実に伝わってきて、ちょっと哀しい。

3番。
これはもう格段の進歩で、紛れもないオーケストラ曲が仕立てられてる。
改訂では金管楽器などの和声的な整理と冗長な箇所をコンパクト化したようだが、原典版での物語性は捨てがたい気がする。
クライマックス構築の起伏差に好みが別れ、一長一短か。
ジョージ・セルの、暗い情念のようだった音楽が、よくもこれほど華やかに振る舞えるもの、頻りと歓心してやまない。一楽章がのんびりな感じを受けた他は、より以上な演奏に出遇えたと思う。これは見事!
ノヴァーク版に馴れ親しんだ者に執っては突飛な感を拭えない和声付けやフレーズの挿入であるが、むしろこうした詳細があってこそ総体が描けるというものではないだろうか。だから予想どおり、ソナタ形式を実現しようとする試みとして改訂ではバッサリ行ったんだろう。コーダは8番を予見させる。

4番。
一楽章からして実に現世的に輝かしく、ここまで来ると宗教感の稀薄さが気になる。舞踊音楽か、オペラからの組曲のよう、無言劇のようだ。
民衆の祭り? そういう表題も聞いたような気がするが。。。
改訂版ではいくつかのフェルマータを削除するためにいくつものフレーズとエピソードに削除が加えられ、そのための和声進行を整えたろうことが伺える。
ついに音楽を奏でるのにオルガンである必要がなくなったのだ。オルガンのような響きの効果を求めることがあるとしても。
ならば演奏は、身振りよりは感情の、酸いも甘いも知った陰影の襞がもっと複雑でも良いのではないか。
ベートーヴェンを解析したパスティシュがベルリオーズ「幻想交響曲」なら、その前日譚(まるでモーツァルト時代の舞台)、前世みたいに聞こえる。
三楽章スケルツォが全面的に書き直されてる。主題を入れ替えたというべきか、展開は活かされてるらしい。なんて器用な真似を!
そこから続く四楽章の導入が、これはワグナーの影響なのだろうか? ずいぶんと近代的なフレーズが挟まれてるように思う。まさにこうした仕草が、何かの無言劇の舞踊曲かと思えるのだ。
改訂版に比べ実に満ち足りて幸福な響きをしてるのだから、山の空気感、つまり大地の神を想起しても良さそうなものだが、ヤングはそうはしない。
好みにも依るだろうが、自分はこの曲は改訂して良かったと思う。ワルターの演奏で。
原典版は楽章を追うにしたがって散漫な終わり方をして収束感がない。
なぜ?と訊くのは人間だからだろう。でも相手は人間でないかも知れない。ある種の摂理、それを受け入れるための独り言かも知れない。
ただ、この曲で最も見事な第一楽章はフィリップ・グラスを思わせる、あれやそれやの打楽器が鳴りはじめればオーケストレーションでさえも。

こうして世間に認められようと努力し第五番から評価されるようになる。
そして内面的な、孤独な度合いが増す。
啜り泣きなのか、草むらを渡る風なのか、息苦しい喪失感に襲われる。

オルガン。
こうして改訂版を信じた演奏者たちは、休符に、むしろ積極的に音の強弱をぶつけることで会場の残響を利用して表現してきた。叶えられない現世での矛盾した望みのように「遠い響き」、よくぞ退廃の烙印を押されなかったものだ。

4番は、もしかすると転換点だったかも知れない。
習作の、0番、あるいは00番の湧き出るような和声の構築。それこそがワグナー無限旋律への関心だったはず。
思い出せば北欧のオットー・オルソンの生前演奏されることのなかった唯一の交響曲にも似た印象を受ける。
共通する手掛かりはオルガン奏者。

スコアを取り寄せてみないと判然としないけど、4番は、主題メロディを前面に立てようとした改訂だったのではないか。裏メロの絡みを刈り込んだり。
それ以降の作曲もそうだが、発想としては共時的から通時的への変化だ。
だから習作に番号はない。
楽章構成のロジックを導入部以外ワンパターンに固定したのは様式を発見したと思ったからなのか。

この辺り、指揮者の解釈にも依るだろう。けど、原典版4番は、まだ素直に受け取れない何かがあるような気がする。
既に自家中毒気味だ。。。

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Comments

で、ブルックナーは♭系が好みだ。管楽器をやってたからだろう。弦楽器なら♯系を好んだろうか? そういう訳でみんなが大好きな5番7番は好きではないのだ、技に長けてはいるけどね。

Posted by: katute | 2009.07.15 at 03:10 PM

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