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2010.07.19

読書メモ

金井喜久子『ニライの歌』を手にして色々と歴史的な健忘症的事象を思い起こし、更に無知であった沖縄の出来事をいくつも知った。
それにしても読み進むほどに、沖縄と東京は異国と思えて来る。
(略)

山梨日日新聞社編『清里の父 ポール・ラッシュ伝』
聖公会や初期キリスト教の定義と意義、日本への関与、戦中戦後の活動と影響など、知れば知るほど興味深いのだが、まず個人として政治的にも宗教的にもイノセントだったのだと思える(ように記述されている)。
(略)

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
歴史は過ぎてみて歴史家が書き記すことで成立するという意見がある。一般に流通する情報が依拠するものであろう。
視点の設置が歴史解釈を識別するだろう。
(略)

グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』
1970年代の終わりに発表された小説でありながら、現在も世界は中国とアフリカをめぐって英米が主役の座を捉えようと暗躍している様に変わりはない。
(略、続く)

金井喜久子『ニライの歌』を手にして色々と歴史的な健忘症的事象を思い起こし、更に無知であった沖縄の出来事をいくつも知った。
それにしても読み進むほどに、沖縄と東京は異国と思えて来る。
個人の功績を讃え記念するにも(個人的回想ではあるが)不用意な重複は削除して沖縄の現実にページを割いても良かったろう。沖縄の苦悩・苦痛、歴史的な立場と日本政府の思惑などを伝えることもまた音楽理解に必要であろうから(音盤の印象は別の機会に)。
「ひめゆりの塔」の観光地化を避けるため再整備したり、沖縄返還式典曲初演に普天間基地米軍バンドに依頼したり、ストレートに理解するには複雑な想いがする。
私個人としては、米軍はライキュウを占領して沖縄として返還した、その間に横たわるのが日米同盟密約なのか、知らないし、知りたい所でもある。
ちなみに、映画「八月十五夜の茶屋」の音楽クレジットを直接確認してないがネットの映画情報サイトのデータには別人が登録されていた。ハリウッドの下仕事をさせられたのであろうか。

山梨日日新聞社編『清里の父 ポール・ラッシュ伝』
聖公会や初期キリスト教の定義と意義、日本への関与、戦中戦後の活動と影響など、知れば知るほど興味深いのだが、まず個人として政治的にも宗教的にもイノセントだったのだと思える(ように記述されている)。
なので登場人物らと同類な利権者でないととしても無私の精神と讃えるのが正しいかは(ここからは)判らないのだ。色々と驚くべき歴史的な事実と影響力の及ぼした出来事や記憶があるにも関わらず。
日本の戦前戦後、また米国との関係や精神的な、政策的な、影響など計り知れない潜在力を秘めていたのは間違いないのだが、人材育成の難しさからか、財政的な自立の弱さか、現在では過去の歴史となってしまった。翻弄された人生として日本に眠る米国人の記録である(と、記述されている)。
執筆者が気を遣っているにもかかわらず、この著作は、日本の恩知らずになってしまった。米国側関係者らには、そう刻まれているのかも知れない。
それは、投資対象とした場合の新興国はこうしたもので、日本が中国や東南アジアの国を見る目と何ら変わりがないのではないか。
(個人を讃える著作なので、『秘密のファイル』『軍隊なき占領』など日本の終戦期を米国側から記録したものとは異質な、つまり一面的で)実に残念な歴史だ。
47ページ
大正十五年十二月十五日、天皇の死去に伴い若規礼次郎内閣は元号を「昭和」に改めた。中国の古典「書経」にある「百姓昭明、万邦協和」が出典となった。「すべての人が明るく、世界各国が心をあわせて仲よく」というのが、「昭和」の意味である。ところが、その命名にこめられたバラ色の願いとは裏腹に、昭和は軍部独奏による侵略の戦火が東アジア全域に及び、全国民を悲嘆のどん底に突き落とした地獄の時代になってしまった。そして昭和二十年八月十五日の敗戦と戦後の繁栄。戦争と平和の両極端を揺れ動いた動乱の時代である。
しかし、昭和初頭には国民の関心は慢性化した深刻な不況の克服にあった。軍隊に対しては「税金ドロボー」のバ声が飛ばされるほどだった。軍部がやがて国を破滅に導くとは、だれにも考えられなかった。
72ページ
キリスト教が徹底して悩める若者たちだけによる青春物語だったのである。イエスがおよそ三十歳で「神の愛」を啓示し初めてから、ゴルゴタの丘で十字架刑により殉教するまでわずか数年間。つき従った十二使徒は二十代の若者ばかりだった。
…虐げられた人々の側に立って権力に立ち向かい、悩み、苦しむ若者たちの疾風怒濤の青春軌跡-それが聖書だった。
78ページ
日本聖公会は米国など各国の聖公会とともに、その母体を英国教会とする全世界的な連帯組織である。英国では国教会の最高権威者であるカンタベリー大主教が歴代国主に王位を授与しており、現在のエリザベス女王もその例にもれない。

国教会の新大陸(アメリカ)への伝導は英国支配層の移住とともにバージニアなど南部の植民地から始まり、上流階級の宗教としての性格を強めいった。立教学院百年史によると、初代大統領ワシントンは聖公会教会の役員であったし、独立宣言の署名のうち四分の三は同教会員であったという。
現在に至まで指導者、知識人に聖公会員が多く、米国の支配階級に仲間入りできる条件であるWASP(白人、アングロ・サクソン系、プロテスタント)のなかでも、聖公会員であることは大きな比重を占めているという。
このため、米国聖公会は農民、労働者のための聖公会とはならなかったが、上層部の資産階級をとらえたことで教育、福祉面での慈善的社会事業に巨額の献金を集めることができた。英語の支配階級・体制を意味するエスタブリッシュメントという単語には「国教化する」という意味もある。


加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』
歴史は過ぎてみて歴史家が書き記すことで成立するという意見がある。一般に流通する情報が依拠するものであろう。
視点の設置が歴史解釈を識別するだろう。
情報の多彩さよりも、そうした情報の存在を捜し出すことが重要である。
それが地政学の説くところと微妙に接近して異なる点でもあるのだろう。
この本はある晴れやかな視界を提供してくれた。
399ページ
そして、こうした日本軍の体質は、国民の生活にも通底しました。戦時中の日本は国民の食糧を最も軽視した国の一つだと思います。敗戦間近の頃の国民の摂取カロリーは、1933年時点の六割に落ちていた。40年段階で農民が41%もいた日本で、なぜこのようなことが起きたのでしょうか。日本の農業は労働集約型です。そのような国なのに、農民には徴収猶予がほとんどありませんでした。工場の熟練労働者などには猶予があったのですが。肥料の使い方や害虫の防ぎ方など農業を支えるノウハウを持つ農学校出の人たちをも、国は全部兵隊にしてしまった。すると、技術も知識もない人
たちによって農業が担われるので、44、45年と農業生産は落ちまくる。政府が、農民のなかにも技術者はいるのだと気づいて、徴収猶予を始めるのは44年です。これでは遅い。

グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』
1970年代の終わりに発表された小説でありながら、現在も世界は中国とアフリカをめぐって英米が主役の座を捉えようと暗躍している様に変わりはない。
軍縮と核と共産主義と、今日よりも濁りのない眼差しで歴史的、政治的な皮肉を並べる。
51ページ
「…流行が変わりました。…最近は偉大な作家たちへの需要が少なくなりましたな。あの頃の読者は年をとり、若い人たちは--今の若い人たちは、いつまで経っても若さが抜けなくて…」
128ページ
「なんいしろ、彼らは純粋のコミュニストだった。ローマン・カトリックがボルジア家の時代を生き延びたように、彼はスターリン時代を通じて、共産党員でありつづけた」

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Comments

グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』は、サラリーマン小説だ。企業や組織に挟まれた個人の生活と悲哀が淡々と描かれてる。こうした生活を描く小説が近頃は減った気がする。

Posted by: katute | 2010.08.03 at 10:56 AM

グレアム・グリーン『ヒューマン・ファクター』にもう少し注釈すると、任務地での情報提供者の姿を描いて、グレッグ・ベアやリンジー・モランなどCIA元職員らの回想記を補うもの、だ。

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』で印象深いのは実は、「5章 太平洋戦争」の「戦死者の死に場所を教えられない国」「満州の記憶」「捕虜の扱い」で銃後の出来事を説いた箇所で。自国民に対しても、その扱いの酷さは、苛酷を強いる一方な移民政策と、補助金欲しさの地方自治体の在り方、が現在まで影濃く残っている。政府や行政は自らの戦争を養うのであるかのように。

Posted by: katute | 2010.08.05 at 10:03 AM

鮎川信夫のコラムで知ったが、当時南アの対立は厳しく世界を何処へ運ぶとも知れない情勢にあったらしい。それで『ヒューマン・ファクター』では中性子爆弾を米などが使用を目論んでいるという設定でアンクル・リーマス作戦が俎上に。幸いなことに作戦は小説の中の架空の存在であったが、時空を歪めて現在も通常兵器や汚れた武器などで実施継続されているらしい。
所で「ノアの箱舟」には人類は1組なのか、人種で1組なのか、地域や国で1組なのか、それとも

Posted by: katute | 2010.08.17 at 01:40 PM

金井喜久子『ニライの歌』に、町内の国防夫人らが延焼を防ぐためと天井を剥いだという件があった。いざ空襲が始まればエラそうにしていた人たちはサッサと逃げ、気付けば著者たちが焼夷弾を消して回った、と。
昨日の暑さに、そんなことを思い起こしながら天井を睨んでいた。
天井の無い家は既にして住むに値せず、また天井を剥がしたとて焼夷弾の延焼は防げるものでも無かろう。
それが理性で理解できないのは町内におけるまたは世間体としての保身のためでだろう。
そこには、他人の財産家屋に野蛮な挑戦を仕掛ける狂気。そして、いざ事が起きればなすすべもなく逃げ出す無責任。それきりしかない。
それは現代にも続いているのではないか。
他者への気遣いに欠けるのは潜在的加害者なのであり、また無自覚であるために事故など引き起こしても茫然自失か、逆ギレして逃亡するのだろうと思われるのだ。

Posted by: katute | 2010.08.17 at 05:54 PM

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