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November 2010

2010.11.29

昼食に入った蕎麦屋の話

嘉永年間から代々そこに暮らしてるという。以前は指物職人だったらしい。脱サラしたのだろう。茨城に畑を持って田舎風蕎麦を打っている。漬物なども自家製だ。入り口の直ぐに二つの小振りなテーブルと小上がりに二卓ある切りなので、マンションの片隅で営んでるのかと思った。屋上でも野菜を栽培して、二階は宴会場で、自宅はエレベータで昇った三階に夫婦で暮らす。
みな借り店ばかりで直ぐ閉まっちゃうのだそうで、バブルの頃、売ったらいいカネになるからってみんな売っちゃったけど、他も上がってたから買えなくって皆いなくなっちゃったよ、と。
木造だったけど、まわりがこうだから、ネズミが来るでしょ木造は、それで建て替えなくちゃらならなかったのよ、前はこうだったんだから。と壁の写真を指す。田舎の茶屋のような佇まいにハタンキョウ色した暖簾が風にそよぐ。
周辺の詳しい年代記を知ってるので話は尽きないのだが、地元民でないために日光街道やらの話をされてもサッパリ理解できなくて申し訳ない限りだ。

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2010.11.22

読書メモ:『秘密の国 オフショア市場』他

ウィリアム・ブリテェィン-キャトリン『秘密の国 オフショア市場』
著者はグランド・ケイマンに2003年5月にやってきて島の祭り見物がてら旅行者を装い島の歴史を振り返り、オンショア/オフショアの生態系を代表的な事例を交えて解説し、冒頭時刻へ戻ってゆく。花火を打ち上げて派手にバカ騒ぎをした後の虚しさしに取り残されて。
映画しか観てないがカール・セーガン「コスモス」のような記述になっている訳で、なかでもとりわけ第5章は執筆動機であるヴァルター・ベンヤミンのパサージュ論(アーケード論、日本のそれは何だろう)に基づき神話時代から現代までの人類を俯瞰する意欲的な哲学エッセイであり、歴史過程における知識と経験を即座に吸収して現時点を俯瞰するためのもので、金融スキーム解説の間に挟まれた間延びした間奏曲ではない。
だが残念なことに訳者らにベンヤミン読者はないらしく肝心な哲学部分が欠落した日本語記述となっているようだ。
また本文中の引用箇所についての指摘がないのも翻訳作業として精確を欠く。
間奏曲を補うためモフセン・マフマルバフ『アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ』袴田茂樹『沈みゆく大国』を併読した。
精神が成熟し醸し出した金融スキームであってみれば、スキーム自体を語ることにはさほどの意味は感じられなくなる。併読の前者は国際的な金融スキーム好きにも読んでもらいたい内容が彼らの望むとは逆方向から開設され、後者では民族性や宗教も交え、抽象概念と具象概念の受容について丁寧な考察が行われている。
なので、監訳者あとがきで、開発銀行経験者としての目撃談(無駄な投資や社会的サボタージュなど)が述べられるが、それが悪なのか正義なのか、それすらなかったように思え、正邪の判断に欠ける。
昨今、正義が白熱する教室があるそうだが、それは稀少価値に基づく憧れを表すのだろう。ならば正義に投機してみるがいい。
そうしたことから併読が必要なのは、訳者らに本書を読み込めていないと思えたからだが、実際に中学生レベルの日本語が並んでいるので下訳かと思えるのは、翻訳者の責任ではなく編集担当や出版社のレベルの問題であり、改訂版が出ていないのは現在も読み込めていない日本の現状を表明しているものと思える。
原題はOFFSHORE The Dark Side of the Global Economy
オフショア市場を地図で確認するほどの熱心な読者なら昨今のデフォルト騒ぎの舞台である国や地域が近似してることに気付いてるだろう。それを著者は既にプロテウスに準えダークサイドと呼んでいるのだ。
思えばルイジ・ノーノは晩年プロメテウスに関連して一連の作品を発表したがどれも静寂がテーマだったのは、プロテウスのアンチテーゼだったのかも知れない。聞こえないような微かな音に破滅の足音が潜んでいるというような、それを打ち消すための活動を促すようにタイトルを付けたのだろうか。
本書を読みながら脳裏にはティプトリーJr.の長編『輝くもの天より堕ち』が立ち上がっていた。
それはまた、歴史の輪(トーラス)を走り回るような感覚を伴い、ボーマン船長の孤独なジョギングを思わせた。

余談だが、
スターウォーズの神話構造に影響したジョゼフ・キャンベルを手狭な意見として手厳しく批判したカミール・パーリア『性のペルソナ』を読んでおくべきなのか。

ラビ・マービン トケイヤー『ユダヤ5000年の知恵』に島に寄港した乗客たちの振舞いを説く場面があった。どのタイミングで下船し島を愉しみ、戻ってくのか来ないのか。そうした選択肢を詳細に並べ投資リターンの様に論じていたように記憶する。
そうした目で見た場合、下記はどう見えるのだろう?
また、その場合に思い出されるのは、マッカーサーが言ったという「日本人は12歳」だ。これには前後の文脈があるとか、16歳を認めさせたとか、無数のウェブサイトが存在する。何に反論しているのか見定めるまでもないが、当人らには受け入れがたい真実が示されているのだろう。ありたい自分と現実の自分の乖離を受け入れることが出来ないからこそ、そう呼ばれたのかも知れない。現代語に訳すなら「日本人は中二病」だろう。これを「高二病」と言ったとて何の差異があるのやら。。。

租税条約に関するプレスリリース:財務省

沖縄をタックスヘイヴンに(2)

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2010.11.11

情報消費の現場で

書店が新刊と漫画しか置けなくなって久しい。売れるからではなく回転が速いから、返品を急ぐあまりに平積みが出来ないと言われるのは既に20年以上も前から。
ネットやケータイが日常に浸透してからは、こうした現象が舞台を替えて起きているのを奇異な目で見てきた。
そんなにも多くの情報を発信し消費し続けるのが当り前になっている。
そうして情報は自分の傍らを素通りするものになった。
コンテンツ産業と名付けられ金銭的価値を見出だされるほどに、それは更に加速して行くように思われる。
実際こんなにも多くの情報コンテンツが必要なんだろうか。消費できなければ産業として成り立たないはずだが、ここでは購買へとすり替えられているように思える。
所有したつもりなのだろう。
では実際の所有との差異は何か。言うまでもないので省略するが、実践出来ないでいるのが現状だ。ならば何故そうした実践力を備えられないのか。
古典に学べというのが正に、古典的回答なのだが、それに価値を見出だせない/ださい、のが現在だ。
安近短がしばらく前に消費スタイルとして特にはレジャー産業で指摘され、社会用語の便利な解説語となった。
歴史、地理、経済、文化、それらが総て安近短の範囲で納まってしまう。なので現代人は日常を30語以下で過ごすと聞いても驚きようがない。
日常消費されるのは所有できると思い込める30語以内のパッケージで、それを更に磨き上げ多彩な意味を付加し深化させたものとなるのだろう。消費する側の深度の差により付加された意味内容の示すものが異なるにも関わらず購買を所有と結びつけることでそれを問題とするのを回避しているのだ。
それでいて狭い範囲を深化させ続けながら、それだけを特化させていく日本的な改善が起こるのもそのためではないだろうか。

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