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2010.12.14

読書メモ:マルグリット・デュラス『北の愛人』


デュラス『北の愛人』

見事に映像的な、記述だ。
地の文に会話を折り込みながらも情景が目に浮かぶように綴られている。
シークエンスを表す一行空き、暗転を指示する改項。
中国の男と白人の少女がフランス領インドシナで出会い互いを縛る家や家族、歴史的な習慣を語り、互いの文化の成立を披瀝する。ポルノと呼べる記述もあるが、それも折り込んだ総体としての存在、登場人物等の在り方を見つめる。
なので『太平洋の防波堤』のように冷笑的な人物の描き方でなくもっと登場人物に寄り添った描き方がされているし、『


愛人 ラマン

』より丁寧な描写で技法も一段と研かれている。
今この時の映像を書き留める、その新鮮ではかない記憶に、不思議な感慨を得る。
エクリール』でも、そうと感じたが、これは「ケータイ小説」の先取りだ。
記述に混乱と誤りがあり整合性が怪しいと翻訳者は註を付しているが、そうではない。シークエンス毎にカメラアングルを換え異なる気分と認識で情景と向き合うことを要求しているのだろう。
もしかすると、改行毎に並べられている文章はそれぞれに意味はないのだが、リミックスされ、物語を伝えるように編集を加えられた仮留めされたシークエンスだ。
何重にも重複する語り直しも、コラージュではなく、モンタージュでもなく、映画の編集というフィルムの切り貼り作業で出来ている作品。
タイトルロール用の映像も用意されてるのが何よりの証拠。

読みながらサティが聞こえていた。お洒落な音楽としてでなく、場違いな感傷として。
また、翻訳された時点よりも日本語の受容能力が深化したらしく、いくつかの単語や情景はアップデートする必要がでてきたと思う。

現在、読書中の『メディアラボ』にも同様な印象を受ける。

補遺:

「語り直し」は新しい技術ではない、キュビズムの画家たちが異なる時間と角度(アングル)から眺められた対象をひとつの画面(フレーム)に収めて、この技法を解説するメタローグを既に完成している。

『愛』『アンデスマ氏の午後』のエクリチュールに磨きを掛けたと呼ぶべきか、映画を観たような気がする。いや読み終えてから映画が自身の内に育ってくるように感じる。

『愛人 ラマン』書き出しに戸惑いを覚えるなら、萩尾望都『半神』を思い出してみては如何か。

見開きのページはイマージュの受像器で、ページを捲ろうと視界を外れるとそのヴィジョンはたちどころに失われる。
そうして、イマージュとヴィジョンの姿は、ミノタウロスとアリアドネが一本のロープに繋がれ柱の周りを追い掛けている様だ。

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